2015年5月20日水曜日

文学と哲学と ─近代日本思想への「エッセイ」=「試み」─ 4


個人と歴史と、あるいは、歴史と個人と。

 

 さて、行為的直観、である。

我々は行為によって物を見、物が我を限定すると共に我が物を限定する、それが行為的直観である。(「行為的直観の立場」)

  ここで単純に、「行為すること」を「働くこと」、「見ること」を「認識すること」とすれば、ここに引用した言葉からわかることは、「働くこと」が「認識すること」に先立つということであって、だから「働きの主体」である「身体」が問題になる。
 そして身体について、西田は述べる。

我々が行動するというには、我々は欲求を有たなければならない。欲求は何処から起るか。欲求というのは、唯意識から起るのではない。それは我々の身体の底から起るものでなければならぬ。無論、欲求というのは意識的でなければならない。しかし意識あって身体あるのでなく、身体あって意識があるのである。而して身体もまた歴史的に形成せられたものでなければならない。唯、我々の身体というのは、単に生物的身体ではない。人間の身体は歴史的身体でなければならない。故に意識的であるのである。意識というのは、我々の身体を越えたもの、或いは離れたものと考えられるかも知らぬが、意識は何処までも我々の身体的自己の自己肯定でなければならない。                          
                             (「論理と生命」)

私が此に身体というのは単に生物的身体をいうのでなく、表現作用的身体をいうのである、歴史的身体を意味するのである。(「行為的直観の立場」)

  また、行為する、つまり「働く」ということについては、「実践ということは、制作ということでなければならない」としたうえで、次のように言っている。

我々が働くということは、物を作るということでなければならない。制作を離れて実践というものはない。実践は労働であり、創造である。行為的自己の立場から世界を見るというのは、かかる立場よりすることでなければならない。
                           (「実践と対象認識」)

 西田のこのような言葉を承けて、藤田正勝氏は行為的直観を四つ要素の連関として説明している(『西田幾多郎 生きることと哲学』、岩波書店)。すなわち第一に、我々の身体から欲求が生じるがゆえに、我々に対して様々な物が、我々の欲求に応じるものとして現われてくる、つまり、言わば「表現的に」立ち現われてくる。そして第二に、表現的に立ち現われる物に対応して、我々の行為が呼び起こされる。さらに第三に、上に「実践と対象認識」から引いた文章において言われているように、「我々が働くということ」すなわち行為とは「物を作るということ」つまり「制作」である。そして最後に、我々は自らが作ったものを「見る」のであり、ここに「行為的直観」すなわち「行為によって物を見る」ということが成立するのである。そして、このようなことは我々の身体を通じて成立するのであるが、身体から欲求が生じるのは物が我々に対して「表現的に」立ち現われてくるからであり(あるいはその逆に、物が我々に対して「表現的に」立ち現れて来るから我々はその物に対して欲求を抱くのか、はたまた物が我々に対して「表現的に」立ち現れて来ることと我々がその物に対して欲求を抱くこととは同じ出来事の二つの側面ということなのか……この辺についてはとりあえず置いておく)、また、我々が身体を通じて何かを制作するということは、身体を通じて何かを「表現する」ことなのであるから、行為的直観において我々の身体は「表現的身体」であるとされるのである。さらに、西田がたとえば「人間的存在」において「バラスト」、つまり船が安定を保つために船底に積む砂・砂利などの重量物にたとえて論じているように、我々の身体はそれを現にあるようにした歴史を、言わば重荷を抱えこむかのように、前提として成り立っているのである。だから我々の身体は「歴史的身体」なのであって、我々の行為は歴史と無縁であることは出来ないのであるが、同時にまた、我々の行為を通じて歴史が形成されてゆく、つまり「歴史的生命は我々の身体を通じて自己自身を実現する」のであって「歴史的世界は我々の身体によって自己自身を形成するのである」のである(「論理と生命」)。
 以上のような議論が、「行為的直観」では、弁証法的運動として端的に次のようにまとめられて論じられている。

作られたものは作るものを作るべく作られたのであり、作られたものということそのことが、否定されるべきものであることを含んでいるのである。しかし作られたものなくして作るものがあるのではなく、作るものはまた作られたものとして作るものを作って行く。これが歴史的実在の弁証法的運動である。

 
 さて、前回の最後に私は、「教祖の文学」で述べられている安吾の作家論が西田の「行為的直観」の概念を連想させる、と書いた。「連想」させるということは、たとえば安吾の作家論によって行為的直観の概念が完全に理解できるとか、あるいは逆に行為的直観の概念によって安吾の作家論が完全に理解できるとかいうことでは、もちろんない。似ていると思われる部分があると同時に、やはり相容れないのではないかと思われる部分もある。以下、とりあえず前者について見てゆこう。

 
小説は(芸術は)自我の発見だという。自我の創造だという。(中略)本当の小説というものは、それを書き終るときに常に一つの自我を創造し、自我を発見すべきものだ……。(「教祖の文学」)

  「自我を創造し、自我を発見する」とは、まさに小説の創作という「働き」あるいは「行為」の後に、創作された小説において小説家が自分自身を「見る」あるいは「認識」するということなのであり、小説家にとって小説を書くということはまさに「行為的直観」であると言えよう。そして言うまでもなく、小説を「書く」ということは身体的な営みなのであり、また、人間に特有の言語的営みなのであって、小説を書くという身体的な営みにおいてまさに人間の進化の「歴史」が「表現」されているのである。そしてこの歴史や表現は、小説の創作においてはまず作家個人の次元で問題となる。

自分というものをある限度まで知悉しない人間が、小説を書ける筈のものではない。一応自分というもの、又、人間というものに通じていなくて、小説の書けるわけはないのだ。尚、そのうえに発見するのであり、創造するのだ。なぜなら、作家というものは、今ある限度、限定に対して堪え得ないということが、作家活動の原動力でもあるからだ。

 小説を創作するに先立ち、作家は「自分というもの」に通じている、つまり作家は個人としての自分が何者かということをある程度は把握しているのであり、また同時に「人間というもの」にも通じている、つまり進化の歴史の先端にあるものとしての自分をも含めて、人間というものについてもある程度は把握している、ということになろう。そして「ある程度」が「限度」として感じられた時、すなわち「ある程度」までしか把握出来ていないということが「堪え得ない」と感じられた時、そこに「作家活動の原動力」が、つまり小説を創作することへの欲求が生まれる、ということになろう。つまり、自分というものを「認識」することが自分というものを「表現」することへと向かわせるのであるが、そのようにして表現されたものは自分というものについての新たな認識をもたらすのであって、小説の創造もやはり弁証法的運動なのである。小説家というものは「常に一つの作品を書き終ったところから、新らたに出発する」、「一つの作品は発見創造と同時に限界をもたらすから、作家はそこにふみとどまってはいられず、不満と自己叛逆を起す」、そして「ふみとどまった時には作家活動は終り」なのである。ところで西田は、認識と表現について、次のように言っている。

対象認識ということは実在を映すということではなくして、表現作用的に表現することである。描き出されるものは、固定せる死物ではなくして、何処までも生きたものでなければならない。歴史的生命でなければならない。描き出されたものは、実在の影像ではなくして、生命の表現でなければならない。そこに知識の客観性があるのである。(「実践と対象認識」)

 作家が創造された小説において新たに見出された「限界」に「ふみとどまった時には作家活動は終り」であるということは、その作家にとってその作品は、さらに言えばその後に書かれた作品であってもそれがその作家の限界を越えるものでないならば、それらは「固定せる死物」であるということになろう。小説の創造は弁証法的運動であってはじめて「何処までも生きたもの」であり「歴史的生命」を保つのであって、そこに描き出されるものが「生命の表現」となるのである。
 このように見てみると、安吾の作家論あるいは創作論と西田の行為的直観の概念とは、非常に近いものを感じさせる。安吾が小林を気に食わなかったのは、前回も見たように、小林が安吾の言うところの「型」を通じてしか物や人間をとらえられなくなったからであり、それらは安吾に言わせれば「死んだ」物であり「死んだ」人間なのであった。安吾が小林を批判する際に用いる「型」や「公式」や「約束」という表現は固定された状態を連想させるものであり、だから西田の言葉で表現すれば小林がとらえていたものは「固定せる死物」であったとも言えよう。このように考えると、前回の「安吾vs西田・小林」という見方ではなくて「安吾・西田vs小林」という見方も出来るように思えてくる。しかしやはり、安吾と西田とではどうにも考え方が相容れないのではないか側面もある。それは、「歴史」というもののとらえ方である。ここで安吾の歴史観を確認しておこう。
 
生きてる奴は何をやりだすか分らんと仰有る。まったく分らないのだ。現在こうだから次にはこうやるだろうという必然の筋道は生きた人間にはない。死んだ人間だって生きてる時はそうだったのだ。人間に必然がない如く、歴史の必然などというものは、どこにもない。人間と歴史は同じものだ。ただ歴史はすでに終っており、歴史の中の人間はもはや何事を行うこともできないだけで、然し彼らがあらゆる可能性と偶然の中を縫っていたのは、彼らが人間であった限り、まちがいはない。

 つまり一人の人間の個人的な歴史においても、人間全体の歴史においても、いずれにせよ「生きた人間」の営みから成り立っている、あるいは成り立っていた以上、「現在こうだから次にはこうやるだろうという必然の筋道」はない、これが安吾の基本認識である(安吾に言わせれば、小林は「型」を通じて無理矢理にそうした「必然の筋道」を「鑑賞」の対象として見出し続けた、ということになろう)。西田の表現で言いかえれば、「作られたもの」から「作るもの」へというプロセスには、それらは連続するにせよ、その連続は「必然の筋道」をたどるものではない、ということになろう。さらに安吾は、「必然の筋道」があったらそもそも文学は必要ないとまで言い切る。

人間は何をやりだすか分らんから、文学があるのじゃないか。歴史の必然などという、人間の必然、そんなもので割り切れたり、鑑賞に堪えたりできるものなら、文学などの必要はないのだ。

 だからたとえば、「行為的直観」において西田の言う「作られたものから作るものへという所に、因果的必然がある」だとか「我々の身体というものは歴史的に作られたものである。何処までも決定せられたものである」だとかいう考え方は、安吾にはとうてい受け入れられるものではない、ということになりそうだ。だが、完全にそうだと言えるだろうか。くり返しになるが、西田は確かに「作られたものから作るものへという所に、因果的必然がある」と言ってはいるがその逆は言っていない、つまり、「作るものから作られたものへという所」に因果的必然性があるとは言っていないし、また、「我々の身体というものは歴史的に作られたものである。何処までも決定せられたものである」と言った後に「しかしまた作るものである」とつけ加えている。だから西田の考え方は「現在こうだから次にはこうやるだろうという必然の筋道は生きた人間にはない」という安吾の考え方に近いとも言えそうだ。いずれにせよ、これから創作を開始しようとする人間を中心とした考え方である、つまり安吾の場合には「今ある限度、限定に対して堪え得ない」作家を中心とした、西田の場合には「作るもの」を中心とした、考え方であることは間違いない。その点と関連して、私は西田の「個性」についての考え方に注目したい(なお「個性」と先に見た「バラスト」との関連も論じたいところだがそれに関してはまた別の機会に)。

我々人間が行為的直観的に物を見るということは、その根柢において我々は個性的に自己自身を構成し行く世界の個性的要素として物を見ることである。個性的なるものを媒介として物を見ることである。(「行為的直観」)

歴史的・社会的個としての我々の行為は、表現的でなければならない。表現作用ならざる個性的作用というものはない。(同書)

 また、個性ということが、我々人間の側からだけでなく、世界の側から、歴史の側からも論じられる。

私のメタモルフォーゼというのは、かかる個性的なものから個性的なものへの動きをいうのである。世界が個性的に自己自身を構成すると考えられる所に、文化が現れる。文化とは、自己自身を限定する世界の個性的内容である。そこには世界歴史的なるものが働くのである。(同書)

 ここでまた安吾の言葉を見てみよう。次の文章中の「万人のもの」と「芸術」を、西田の言う「文化」と置き換えてみると、安吾と西田の違いがよく分るのではないだろうか。

物の必然などは一向に見えないけれども、自分だけのものが見える。自分だけのものが見えるから、それが又万人のものとなる。芸術とはそういうものだ。歴史の必然だの人間の必然などが教へてくれるものではなく、偶然なるものに自分を賭けて手探りにうろつき廻る罰当りだけが、その賭によって見ることのできた自分だけの世界だ。

 つまり、西田と比較した場合、安吾には個人を超えた歴史という観点が欠けていた、ということになろうか。そういうことにして片付けてしまってもいいのかもしれない。だが私はどうしても、そう片付けてしまっただけでは何やら割り切れないものを感じてしまう。というのは一方で、太平洋戦争後に安吾を一躍有名にした「堕落論」は、ある意味で個人を超えた歴史についての議論が展開されたものなのであるが、やはり安吾の歴史観が西田のそれと異なる理由として、原爆投下いう未曽有の殺戮とあまりにも無残な敗戦という事実があるのではないかと、私は思うのである(西田はどちらにも立ち会うことなく亡くなった)。また他方で、そういった外的な事情とは別に、二人の「動機」における類似性とその後の方向の違いという、内在的な観点からも考えてみたい。すなわち、良く知られているように、西田は哲学の動機が人間の「深い悲哀」になければならないとしたのであり、また安吾の文学の動機は「人間は悲しいものだ。切ないものだ。苦しいものだ。不幸なものだ。なぜなら、死んでなくなってしまうのだから」という人間観であったと言ってよいであろうが、このように似た動機から出発しながらも、言うまでもなく西田は哲学に向かい、安吾は文学へ向かったのである(もっとも、西田は歌を愛し、多くの作品を残しているという点も興味深い)。
 以上、「試み」の末に、「エッセイ」の最後に、またしても大きな問題に出会ってしまったところで、今回はここまで。

 ところで……今回から仮名遣いを現代仮名遣いに直してみました。いかがでしょう?