2015年4月19日日曜日

倫理という「スキル」?2

倫理という「スキル」?2

 
 さて、前回の続き。
 
 フィリピンでいわゆるわいせつな行為を繰り返していたという中学校だか高校だかの元校長先生の事件をネタにしたお話、でしたね。前回の最後に書いたように、この元校長先生が言ったとされる「倫理観のタガ外れた時、解放感味わえた」という言葉が、私にはどうにも引っかかったのでした。それは、なぜか。
 
  ところで、「タガが外れる」という言い回しの中の「タガ」ですが、これは漢字では「箍」と書きます。もともとは、桶の枠組みを固定するための、輪のかたちをした道具のことなんだってね。転じて、「タガ」とは、何かを外側から締め付けて、その何かをきちんとした状態に保つものを意味することになって、「タガが外れる」とはそういった外側から締め付けるものが無くなって、無茶苦茶な状態になってしまうことを、意味するようになったんだね。この言い回しが出来た根っこには、人間というものは外側から何らかの力を加えることで変わるのであって、その何らかの力というのは、たとえばあたかも「箍」という道具のように取り外し可能なんだっている発想があるみたいだね。そして話題の元校長先生にとっては、「倫理」だの「倫理観」だのというものも、そういう取り外し可能な道具のようなものだったと、そいうわけだね。
 
 こんな風に考えた時、私が連想したのは、ある種のTVゲーム(RPG系とか)の、キャラクター育成でした。以下、そんなにマニアックなレベルの話でもないけれども、全然わからない方々、ごめんなさい。ゲームでキャラを使っていくと、キャラのレベルが上がります。でも、レベルが上がったからと言って、そのキャラがどんなキャラであるのかが決まるわけでも、変化するわけでも、ない。つまり、そのキャラの本質が決まるわけでは、ないんだね。HPやMPが増えたり、それまで行けなかった場所に行けるようになったり……ようするに人間で言えば、ただ年齢を重ねるというだけで、図体がデカくなったり行動範囲が広がったりするだけで、別にその人間そのものが本質的に立派になるわけではない、みたいな。で、そのキャラがどんなキャラであるのかを決める、あるいはそのキャラを変化させるのは、いわゆる「スキル」だったり「魔法」だったりするわけだ。たとえばあるスキルを覚えさせると「遠距離攻撃系」のキャラになったり、またある魔法を覚えさせると「回復系」のキャラになったり、とかなんとか……。で、このスキルや魔法というのは、言ってみれば「取り外し可能」なわけです。つまり、ゲーム中でキャラが覚えられるスキルの上限数というのが、たいていのゲームでは、決まっているんですよ、たとえば三つとか四つとか。でも、たいていのゲームではストーリーが進むにつれてもっと多くの様々なスキルが登場するわけで、そうなると、それまで覚えていたスキルを外して、その代わりに新しいスキルを覚えることになるわけです。そんな風にして、スキルや魔法を外側から着けたり外したりして、ゲームのキャラがどんなキャラであるのかが、決まってゆくわけだ。話題の元校長先生にとって、「倫理」だの「倫理観」だのというものも、こういう取り外し可能なスキルや魔法のようなものだったのかねぇ。そのへんのところがね、どうにも私には引っかかって仕方がないんですよ。繰り返しになるけれども、ゲーム内のキャラはレベルが上がっても、そのキャラ自体が本質的に変化するわけではない、それと同じように、人間の場合だって、外付けのスキルのようなものとして何らかの知識を身に着けたって、その人間自体が本質的に変化するわけではないのです。極端な話、この元校長先生は、これまでの人生の中で人間自体が変化する、あるいは成長するという経験をすることなく、ただその時々の必要に応じて、様々な知識をスキル的に身につけることによって何とか凌いできた、で、倫理だの倫理観だのいうものも、そうやって何とか凌いでゆくためのスキルの一つにすぎなかった、と。でもね……
 
 倫理とは、そういうものではありません。
 
  そういえば坂口安吾が「デカダン文学論」で島崎藤村の「新生」という作品を批判しつつ、日本における倫理だの道徳だというものについて、論じております。藤村の「新生」という作品は、藤村が自分の姪との、言わば「不適切な関係」(古いなぁ……みなさん覚えてらっしゃいますか、こんな表現?)を告白した作品なのだけれども、この作品を、そして藤村の態度をこき下ろすにあたって、安吾は「型の論理」だとか「論理の定型性」だとかいうことを言っております。「型の論理」あるいは「論理の定型性」とは、世間一般において「道徳とか正しい生活などと称せられるものの基本をなす贋物の生命力」だって、安吾は言うんだね。そしてさらに「すべて世の謹厳なる道徳家だの健全なる思想家などというものは例外なしに贋物と信じて差支えはない」とまで、言い切っているんですよ。そして、藤村をはじめとした「すべて世の謹厳なる道徳家だの健全なる思想家などというもの」がやっていることは、この「型の論理」や「論理の定型性」にしたがってものを考えて、そして自分の言動をそういったものに当てはめようとすることにすぎない、と言うんだね。まず、世間一般において「正しい」と認められている道徳的なあるいは倫理的な態度、つまり「型」や「定型」がある。で、さらに、そういう「型」や「定型」に自分のしたことや言ったことを当てはめる、そしてその「当てはめる」という作業そのものもまた、道徳的に倫理的に正しい態度の現われだとされるんだね。つまり、藤村の場合にしても、姪との不適切な関係が世間一般では不道徳であり不健全なものとされているにしても、それを反省して、というか「ああ、反省してるんだな」と世間一般に認められるようなかたちで告白してしまえば、告白したということ自体が立派に倫理的・道徳的に健全なこととして世間一般に受け入れられてしまうんであって、さらに藤村ほどの著名人の場合には「謹厳なる道徳家」だの「健全なる思想家」だのとしてのメンツまで保たれてしまうんだね。ところでここで安吾の言う「型」とか「定型性」って、「タガが外れる」と言われる場合の、「タガ」を連想させませんか?
 
 要するに、「こうすればこう思われるだろう」とか「こう言えばこう思われるだろう」という、多分日本人に特有の「お約束」があって、そのお約束にしたがうことによって、日本では我が身が守られる、というわけだ。たとえば、中学校とか高校とかで、やたらと反省文を書くのが得意だった悪ガキがいたでしょう?そういう悪ガキのことなんか思い出したら、分かり易いんじゃないかな。そういう悪ガキどもは、たとえば「大人は子どもがこういうことを言えばこう受けとめる」とかいうお約束を、十分に分かっているから反省文を書くのが得意なんだね。今回の元校長先生にしても同じことで「倫理観のタガが云々」とか言えばそれこそ倫理的に許されるって、その程度のつもりで、いや、「つもり」とかなんとか、そんな風に自覚することも微塵もないままに、ごくごく自然に、こういう発言をしたんだろうね。もしかしたらこの元校長先生、それこそ中学だか高校だかの教員時代に、悪ガキどもに反省文の書き方なんか、指導していたのかもしれないね。だとしたら、それがこの人の倫理教育だったわけだ。でもね……
 
倫理とは、そういうものではありません。

このブログにも何度かご登場いただいているエマニュエル・レヴィナスは、倫理学こそが第一の哲学である、つまり、倫理学こそが哲学の出発点であり哲学的思考の大前提であると、主張しています。伝統的に西洋の哲学では、そのようなものとして最優先されてきたのはいわゆる存在論でした。存在論、つまり、ものすごく乱暴にまとめてしまうと、人間も含めて、石ころから神様に至るまで存在するありとあらゆるものをまさに「存在するもの」として考える、そういう態度です。「人類みな兄弟」ならぬ「存在するものみな兄弟」、そこではありとあらゆるものが、まさに「存在するもの」として「同じ」、つまり「同一」なわけで、世界は「同一者」で溢れかえっているわけです。レヴィナスに言わせれば、そうじゃ、ないんだね。人間が哲学しようとすれば、つまり、人間について、世界について、人間が何ごとかを考えようとすれば、その始まりには「存在するとは別の仕方」においてある、何ものかがかかわってくる、あるいは、哲学は「存在するもの」という同一者の群れの向こう側で、つまり「存在することの彼方」で始まると、レヴィナスは言うんだね。「存在するとは別の仕方」においてある、何ものか、そして、「存在することの彼方」で人間が出会うもの、それをレヴィナスは「他者」と呼ぶわけです。我々の理解を超えた他者、同一者の群れに解消され得ない他者、そういうものに直面した時に、我々はそういうものを同一者の群れの中に暴力的に解消しようとしてはならないのであって……いや、ちょっと大げさかつ物騒な言い回しですね、我々はそういうものを無理矢理に理解したつもりになってはいけないのであって、むしろその逆に、理解を超えたものを理解を超えたままに、言ってみればそのままに尊敬し尊重する、つまり倫理的でなければならないんだって、レヴィナスは言うんだね。だからレヴィナスに言わせれば倫理とは、世間一般などという、我々に先立つ、そして我々にとって言わば外的な「お約束」などが成立している世界、言いかえれば「他者なき世界」で問題になることでは、そもそもないのです。またそれは、我々にとって外側から取り外し可能なタガでもスキルでもありません。哲学しようとする人間の、人間や世界についてなにごとかを考えようとする人間の、態度を、あり方を、本質的に決定するような、そういうものなのです。
 
 でもまぁ、こんな話、だんだんとだんだんと、どうでもいい話になってゆくんだろうネ。たとえば学校での道徳教育の強化なんてことが言われているけれども、最近ではそもそも教育全般においてスキルの習得が重視され優先されるようになってきているわけで、倫理や道徳も、そういう扱いを受けるように、なってゆくのかねぇ。無力です、こういう流れに対して、一人のフリーター無頼派(なんとも「頼り無い」という意味で)非常勤講師にすぎない私などは、あまりにも無力すぎます。でもまぁ、嘆いていても仕方ないので、とりあえずがんばりますよ、ええ、「命がけ」で。